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売り切りでない、オフィス向けの継続サービス
【ストックウェザー(SW)】貴社はどんな会社ですか?
【大久保社長】私たちはオフィス向けのさまざまな継続サービスを行っています。オフィス向けの
サービスにはいろいろとありますが、私たちは物販のような売り切りではなくて、付加価値を必要とするビジネスをしています。
例えばオフィスコーヒーサービスでは、業務用のコーヒーの機械のお貸し出しをして、それを私たちが定期的にメンテナンスをしながら使っていただいています。
ウォーターサービスでは、専用のサーバーのお貸し出しをして、これも私たちがメンテナンスをしながら使っていただきます。ウォーターサービスで主にご利用いただくのは5ガロンと3ガロンのボトルですが、使い終わったら捨てるのではなくて一度使ったものを全部回収させていただき、徹底的に洗浄・殺菌をした後、再利用します。
オフィス清掃サービスではマットモップなどは、そのものをお貸出しして、定期的に新しいものに交換していきます。
同じオフィス向けのサービスでもアスクルさんのようなワンウエイではなくて、ツーウエイが必要な、そういうビジネスをやっているということです。
【SW】常にお客様と繋がっているということですか?
【大久保社長】そうですね。継続的にお付き合いをしていただいているということですね。
【SW】ダイオーズの社名の由来を教えてください。
【大久保社長】ダイオーズがスタートしたのは
1969年です。この時はまだ「米屋おおくぼ」という名前で、家業のお米屋さんのビジネスでした。
1976年頃、オフィスコーヒーサービスのビジネスを始めた頃に、最初はダイオーズではなく、
「ダイオー」という名前をつけました。
ちょうど日本ではダイエーさんが流通革命を起こし、どんどん成長して、百貨店の三越さんを抜き、日本一の流通企業になった頃でした。
私自身はもともと26から28歳にかけて、1967年から69年までですが、アメリカとヨーロッパで
流通の勉強をしていましたので、日本に帰ったら
ぜひ、流通業で新しいビジネスにチャレンジしたいと考えていました。
流通業でどんどん成長するダイエーさんのような会社にならって、ダイエーの「エ」の次は「オ」だというところからダイオーという名前にしようと。それからもう一つは大久保の「オオ」を音と訓で読むと
「ダイ」と「オオ」と読みますよね。ちょうどいいじゃないかということからダイオーと名をつけたんですよ。
そのあと、商標の登録をしようとすると、大王製紙さんなどがすでにありまして、「ダイオー」では登録できなかったんですね。しょうがないので複数形にしようということでダイオーの後に複数形のsをつけて、ダイオーズにしたんです(笑)。
単身アメリカへ
【SW】1967年から69年までというと外貨の持ち出し制限があった時代ですね。当時、単身で海外に行かれるというのはたいへんなことだったのではないかと思うのですが、どうして海外に行こうと思ったのでしょうか?
【大久保社長】そうですね。
もともと米屋の息子として生まれたので、商売への興味は小さいころから持っていたんですよ。
大学生の時は全日本学生写真連盟の委員長をやっていて全国を飛び回っていたのですが、その頃の日本経済新聞に「流通」のページがありました。日本国内の量販店など、新しい流通の動きをで掲載していました。そこで、自分の中でこれはと思うものをスクラップして、たとえば大阪へ行くと
千林のダイエーさんや神戸の灘生協に行ったり、
四日市の岡田屋さんに行ったりと、写真連盟の委員長の仕事の傍ら、自分の目で流通の現場を見るということをやっていました。
大学を卒業した後、読売広告社に入ったのですが、そこで、日本の繁盛店を集めてチェーンストアを作ろうということで、会社の中に多数の独立した小売事業者を連携、組織化するボランタリーチェーンを作ったんですよ。そうしたこともあり通産省にも出入りするようになりました。
通産省もそのころ、日本の小売業の近代化を目指す、ということで、ボランタリーチェーンを推進していて、年に2回、アメリカ、ヨーロッパのチェーンストアの成功された経営者を日本に呼んで日本でセミナーをやっていました。
そのセミナーにいつも出席させていただいて、セミナーが終わった後、その経営者の方々を紹介していただき名刺交換をしながら、いろいろと自分を売り込んで、できたらぜひ研修させてほしいとお願いしていたんですね。
そうするうちにアポイントが取れるようになりました。
当時は観光では海外には行けませんでした。海外に行くためには業務ビザが必要で、アポイントを集めて、通産省にも応援していただき申請を出して、業務ビザを取得しました。
【SW】家族は大反対だったとか。
【大久保社長】そうですね(笑)。帰ったら米屋を
継いで日本一にするからと約束をして、何とか説得しました。
最初に行ったのが、アメリカのカリフォルニアのCGCというスーパーの共同仕入れ機構でした。
週7日のうち5日間はお店で働いて、2日間は本部で勉強してという繰り返しでしたね。
それから「商業界」の前主幹の倉本先生にご紹介いただいた、南カリフォルニア大学の教授で、流通で有名なマギニスさんという先生がいらっしゃいまして、私もカリフォルニアにいましたので、何度もお会いしてメーシーズや、セブンイレブンの
当時の親会社のサウスランド社などに紹介状を書いていただき、訪問して勉強させてもらうというようなこともしていました。
【SW】その頃、日本の企業が研修でアメリカに行くとしてもそれは組織で行かれたわけですよね。お金の問題もあり、単身で行かれた方というのは少なかったのではないですか?
【大久保社長】少なかったでしょうね。
私がアメリカに行く時、船のお金は片道分だけ親から出してもらいました。あとは全部現地で働いて、
給料をもらってやっていくことにしていました。
当時読売広告社の給料は月3万円。当時は1ドル=360円ですから、およそ1か月80ドルですね。
アメリカでの初任給は1週間で100ドルでした(笑)。なおかつ私は正味2年間海外にいたんですが、
2年間の間、いっさいホテルに泊まっていないんですよ。全部ホームステイなので費用はかからないんですね。それなのに収入はそれこそ日本の3倍、4倍もらっていましたから、最終的に日本に帰ってきたときはお金がたくさんたまっていました。(笑)。
【SW】アメリカへは船で行かれたのですね。
【大久保社長】そのころ飛行機は高くてね。まだ
プロペラですので、日本航空のサンフランシスコ便があったのですが、途中、ウェーク島で一度給油して、さらにハワイ島で給油をしなければならないという時代でした。それでも片道、私の給料が
3万円の頃、給料の4ヶ月分の12万円でした。私が乗った船はアメリカン・プレジデント・ラインの船底ですが、でも確か給料の2か月分強の7万円くらいでした。
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